道後温泉の案内!
振鷺閣(しんろかく)

 本館三層楼の屋上にある振鷺閣は、古典的な建築に一段と風趣を添えていますが、建築当時は宝形造りで、銅板葺きの屋根という斬新な設計と費用が高かったことから、無用のものを取りつける必要があるのかと物議をかもし、町の火災警戒の火の見やぐらという名目で納得されたという話が伝わっています。
 閣内の広さは約1坪、周囲の窓は赤いギヤマンをはめた障子で、夜になると中央天井の釣ランプをともしたことから、それが赤いギヤマンに反射し、ネオンのない当時の湯の町の夜空に異彩を放ったといわれています。
 また格天井の中央から吊るされた太鼓は、時刻を告げる「刻太鼓(ときだいこ)」として1時間毎に打ち鳴らされていましたが、今は朝・昼・夕方の3回だけになり、昔ながらの懐かしい音に湯の町の1日が始まり、暮れています。この刻太鼓(ときだいこ)の音は環境庁(当時)の残したい「日本の音風景100選」に選ばれています
坊っちゃんの間

 夏目漱石が、松山中学の英語教師としてこの地を踏んだのは、明治28年の4月。そのころの道後温泉は木の香も新しい建物であったことから、「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと3階に上り、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と手紙で書き送っています。
 漱石は、病気静養のため帰省していた子規と50日余り同居生活し、子規や虚子としばしば道後に出かけています。道すがら交わした文学論や、神仙体の俳句は、一介の英語教師から文豪・夏目漱石へとなる発端になりますが、この「坊っちゃんの間」は、昭和41年、松山が生んだ俳聖 正岡子規と、子規の友人である柳原極堂の「生誕100年祭」を催した際、漱石の娘婿の文人 松岡譲氏を招き、漱石をしのび、このゆかりの部屋を同氏が『坊っちゃんの間』と命名したものです。
玉の石(道後湯之町)

 道後温泉本館東北の一角にあり、大国主命・少彦名命の伝説神話に、「少彦名命が踏んで立ちあがられた」という石です
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3000年を超える歴史をもつ道後温泉。そのシンボルは明治27年に建築された道後温泉本館。そこから奥に約4km、湧ヶ淵沿いに湧いている自然林の中の温泉が奥道後温泉。季節ごとの花が咲き、ジャングル温泉、ロープウェイなどで楽しめる。道後の東に位置するたかの子温泉は1200年前弘法大師様に見出されたと言われており、その泉質のよさは地元でもお墨付き。
今治市内から車で約20分。鈍川渓谷は奥道後・玉川県立自然公園の楢原山を主峰とする山々から流れ出る清流により、自然の恵みや美しさを堪能できるスポット。その渓谷の麓に位置する鈍川温泉はその昔、今治藩の湯治場として栄えた伊予の仙境と呼ばれる温泉郷である。ラドンを含むアルカリ性単純泉は肌触りよく滑らかで美人の湯としても有名
四国で始めて国民保養温泉地に指定された湯ノ浦温泉は、3軒のホテル、公共の宿、クアハウス、日帰り入浴施設等が立ち並ぶリゾート地。テニスコート、パークゴルフ場をはじめ、ボブスレーや芝生滑りなどの施設も整備されていて、家族でのんびりと楽しむことが出来る。また夏場は、海水浴やキャンプも。
今から1200年の昔、「弘法大師」に発見されたと云われる「たかの子温泉」は、こんこんと湧き出る良質のアルカリ泉です。肌はいつまでもスベスベして、これが本物の温泉かと心の奥まで暖まり、心地よい気分になる。いわゆる「湯ざめ」は全くなく、神経痛やリュウマチの痛みをやわらげてくれます
休暇村周辺には小さな温泉がいくつも湧くエリアで休暇村にも「ひうちなだ温泉」の名で人気の展望台浴場があります。天井まで届く大きなガラス窓からは瀬戸内海を一望にし、遠くに石鎚連峰を望む見事な眺望が評判です。
その他の愛媛の温泉地
緑いっぱいの石鎚山の山すそに建つ閑静な和風温泉旅館。国道11号線や四国霊場前神寺(64番札所)からも近く、観光ビジネス、お遍路参り等の拠点として、あらゆる客層に広くご利用いただいています。四国の情緒に富み散策も楽しめます。日帰り利用もできる温泉は天然の弱アルカリ単純泉
砥部焼き
重信川の支流砥部川が流れるなだらかな谷に、大小90余りの壷元が立ち並ぶ焼き物の町です。砥部は!220年余りの歴史をもつ焼き物をご覧下さい!
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