道後公園の湯築城跡にまつわる話。湯築城は今を去ること700年位前の建武の頃(1334年頃)伊予の地を治めていた河野通盛が二重堀を設け東に大手門、西に搦手門=道後公園駅前方面を作り、湯築城と称した。
この湯築城の3代城主=河野道直の奥方が、ある日急に二人となってどちらが真の奥方か見分けがつかない。見分けのつかない奥方二人に家来たちも途方に暮れていた。医者にみせると「何ぞ魂が分かれる奇病ではございますまいか」等と治療の方法も無いという。合点のいかぬまま道直公は二人一緒に座敷牢に閉じ込めてしまった。そして4日目の朝、空腹になった時を見計らって食事を与え、その様子を詳しく観察していると、一人がガツガツと耳を動かして食べだした。直ぐに取り押さえ縄をかけたところ「古狐」の姿になった。
道直公はこの「古狐」を木に縛りつけて火あぶりにしようとしたところ、大小3千匹の狐が現れ「この狐は貴狐明神の子孫で四国の狐の統領です。今焼き殺されると、ご領内に必ず災いがおこります。お助けくださればきっとご恩に報います。どうかお助けを・・・」と命乞いをした。道直公は、狐の一族が四国から出て行くなら許してやるという約束の証文を取って狐を追放した。しかして、四国には狐が居なくなったという。狸族が四国ではばを利かすことになった。
その昔、遍路を装った男女が第52番札所・太山寺の遍路宿にやってきた。この二人は金剛杖を青竹で作り、粗末に扱っていた。金剛杖は「弘法大師」の化身としての役割をもつとされ、金剛杖を持って巡拝することは弘法大師とともに歩くことであり、そのことを「同行二人」(どうぎょうににん)と呼んでいます。
この男女は、同行二人であることを、おろそかにして青竹の杖を扱っていたため、2本の竹はねじれ合って根を生やしたいわれている。この竹は「ねじれ竹」と呼ばれ、以来、遍路の金剛杖には青竹を使わなくなったと伝えられている。
太山寺の参道脇の人家(昔は遍路宿)の庭に「ねじれ竹」がある
 久谷の里・荏原(恵原)の郷のある年の5月5日=端午の節句の話。空腹の弘法大師が修行中、この郷を通りかかり、端午の節句に「かしわ餅」を作っていたとある家に立ち寄り、餅を所望した。ところが、その家の主人は、欲張りで餅が出来上がっているにも拘らず、「まだ、かしわ餅は蒸せとらん」といって施しをしなかった。大師は欲深さを哀れんで自ら反省するように、近くの小川の岩に足跡を残した立ち去ったいう。その家では、蒸した「かしわ餅」が生(なま)に変わり食べられなくなったという。それから後も毎年餅が蒸しあがらなくなったという。
 高井の里の昔の話。修行中の弘法大師が高井の里を通りかかった。その年は日照り続きで、水田はひび割れ、草木は枯れ、人々の心も荒んでいた。歩き続けていた弘法大師は、喉の渇きを覚え水を所望した。どの家でも水を貰えない=とあるあばら家で老婆に水を請うた。老婆は長い時間経って一杯の水を持って帰ってきた。遠く離れた泉まで水汲みに行ったのである。「この辺りでは水が不自由とみえる出してあげよう」と弘法大師は、杖を大地に突き入れると不思議や泉となった。今なおどんな日照りにも涸れることはなく、杖の渕公園として整備されている。 
木屋町4丁目の個人住宅敷地内にある、「片目鮒=かためぶな=の井戸」にまつわる伝説。
 お百姓さんの午前中の仕事も一段落した昼時、昼飯のおかずは、近くの井戸にいる鮒でも焼いて食うことにしようと、鮒を焼き始めた。そこへ托鉢姿で修行中の弘法大師が通りかかり、「哀れなことじゃ、焼かれながら鮒が暴れている。鮒を譲ってください。」と頼んだ。お百姓は、「片目はもう焼かれとるぞな。ほじゃけん、もう助けることはないじゃろう。」と返答したが、弘法大師は、哀れに思い片側の焼けた鮒を譲り受け、井戸に投げ込み、念仏を唱えると生き返ったという。以来、この井戸には片目の鮒が、水路でつながっていた紫井戸とともに行き来していたと伝えられている。(今は、両井戸ともに水は涸れているが、昔日の井戸は残っている) 
しかとは解らないけど道後の里あたりの昔の話。季節は実りの秋のこと、あるお婆さんお芋を掘っていた。掘りたてのお芋は新鮮でおいいしそうだった。そこへ通りかかった旅の途中の弘法大師は、「ひとつお芋を分けてくださらぬか。」と頼んだ。しかし、お婆さんは掘った芋を渡すのが嫌で、顔をしかめて「お坊さん、折角なんじゃけんど、このお芋は硬うて食えんのじゃ。」と答えた。弘法大師が立ち去ってから、うまいことだまされたよったと、ほくそえみながら芋を家に持って帰った。さて、もう蒸し上がった頃じゃろうと、芋に串を刺してみても芋は石のように硬く串も刺さらなかった。「硬うて食えん」と言ったことが本当になってしまった。それ以後、その辺りでは硬い芋しか取れず、人々は「食わず芋」と呼んだという。
 同じような話が、吉藤の里にもあって、ここでは「石芋」と呼ばれていたという
昔、弘法大師が四国88ヶ所の霊場を開基した時の話。
その当時、「狐」も「狸」も四国にはたくさん棲息していた。「狐」は狡猾(こうかつ=ずるく悪賢い)で利口すぎて具合が悪い。そこで、「狐」を四国の島から追い出して、その代わりに頭は弱いがお人よし(お狸よし)で明朗な「狸」を利用する方が宗教的でよかろうということで、「狸」を可愛がった。四国に「狸」にまつわる話が多いのは、こんな逸話も伝えられている。

昔、久谷の里での話。農作業の邪魔になる二個の岩を村人総出で動かそうとしてた。大きな石でびくともせず、どうしたものかと途方に暮れ困り果てていた。丁度そこへ通りかかたのが、四国の各地を修行していた弘法大師。弘法大師は難渋している村人を救おうと、大きな石に網を被せて天秤棒で担って運ぶ途中、棒が折れて一つは大久保へ一つは今の場所に残ったといわれている。石には網目模様があり、網を被せた(かけた)石=網かけ石と呼ばれている。大きく横たわる状態が鯨にも似ているので、鯨石とも呼ばれている
四国の昔話!
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